病院の診察室。 定期検診に赴いていたディミトリは診察室に居た。「その後、頭痛は起きますか?」 問診している相手は鏑木医師だ。 普段どおりの温厚そうな表情を見せている。「前の時のような酷い頭痛は無いです」「そうですか、それは良かったですね」「はい、ありがとうございます」「恐らくは脳の腫れが引いてきているのだと思いますよ……」 鏑木医師はカルテに何かを書き込んでいた。 その間にディミトリは診察室の中を見回していた。追跡装置に充電する何かが有るはずだからだ。 しかし、これと言って怪しげなものは見つからない。「先生に処方していただいた薬のお陰だと思います」「そうですか、それは良かったですね……」 褒められた鏑木医師はニコニコとしながら答えた。「それで…… 事故にあう前の事は思い出しましたか?」「それは無いですね……」「そうですか……」「……」「まあ、ゆっくりと思い出していきましょう」「はい……」 鏑木医師はにこやかに答えていた。 ディミトリもそれに合わせて模範的な回答を心がけていた。中身はともかく、表面上は優等生を演じることにしているのだ。 まだ、追跡装置の存在を知っていることを悟られてはならないからだ。「背中にシコリみたいな感じが有るのですが?」「そうなんですか?」「はい」「ちょっと見てみましょう」「お願いします」 鏑木医師はディミトリの上半身を脱がせて、背中に回って手術跡を触診しはじめた。 ディミトリはそっと振り向いては先生の表情を注視していた。「どの辺ですか?」「手術の縫い目のあたりですね……」「別段、違和感は無いようですが……」「シコリがあるなと思う時に携帯電話の受信状況が悪くなるんですよ……」「そうですか…… 何とも無いけどなあ……」「勘違いだと思いますよ。 縫っているので皮膚が引っ張られるのを感じ取っていると思います」 一応カマを掛けてみた。『受信状況が悪くなる』で何か反応があるか注意してみたのだ。 だが、鏑木医師は顔色ひとつ変えずに触診をしている。(ひょっとしたら違う医者が埋め込んだという可能性もあるな……) 表情を変えない鏑木医師は違うんじゃないかと思い始めた。「そう言えば先生って独身でいらっしゃるんですか?」「いや、結婚はしているよ」「へぇ、そうは見えないです」「珍し
好みの美人看護師に点滴の準備をされながら点滴の袋を見ていた。透明な液体で満ちている。 薬剤は点滴でゆっくりと入れる。作用がきついので時間がかかるのだと鏑木医師は話していた。 その際には腕に黒いバンドが締められる。締められるというより巻かれるという表現が正しい。 血圧を測る時に使うバンドに似てるがちょっと違う印象を受けていた。 だが、ディミトリは点滴の液が滴り落ちるのを見ながら気がついた。(そうか……) どうやって追跡装置を充電していたのか謎だった。だが、その方法が閃いたのだ。『電磁波充電』 電磁波があれば電流を生み出せるのだ。 コイルの中心を通過する磁力線が存在すると、そのコイルに誘導電流が流れる。 これをバッテリーに流し込んでやれば充電が出来るようになる。 こうすれば体内に有っても外からの充電が可能だ。電源コードは繋げる必要がない。 つまり、腕に巻いている黒いバンドは電磁波を起こさせているものに違いない。 点滴で腕に何か巻くなど経験したことが無い。せいぜい言って針がずれないようにテープを巻くぐらいだ。 処置をされる度に感じていた違和感はこれだったのだ。 鏑木医師が定期的に診察に来るように言うわけだ。ディミトリでは無く電源の残量が心配だったのだ。(間違いないな……) もはや確信に近いものがあった。(腐れゴミ医者め……) 追跡装置が腕に有るのなら、背中の違和感など勘違いだと言っているのが分かる。 彼はそこに何も無いことを知っているからだ。 信頼してただけに結果が非常に残念だった。怨嗟の焔が燃え上がるようだ。(さて、どうしてやろうか……) とりあえずは腕の何処にあるかを確認しなければと考えた。 それは自宅でも出来る。小型の超音波診断装置があるからだ。 本当は壁にある隠し扉を見つけるために買ったのだが、本来の使い方が出来るとは思わなかった。 襲撃の時には警察がやってきた事も有り使う暇が無かった。(最初からやっておけば良かったな……) 病院に来るまで買ったことを忘れていたらしい。 もっとも、背中を隈なく探すには一人では無理な話だった。小型なので見える範囲が狭いのだ。(以前に使った時には腹に撃ち込まれた弾丸を探す時だったっけ……) 衛生兵では無いので大雑把な位置が分からないとナイフで取り出せない。 金属は反応
自宅。 ディミトリは病院の事務室に侵入して、職員名簿から鏑木医師の住所を手に入れていた。 侵入と言っても誰もいない瞬間を見計らって室内に入っただけだ。 何故か不審がられなかったのは謎だが、業者か何かと間違えられたのだろうと考えることにした。 自宅はディミトリが住んでる市内であった。確かデカイ家がたくさんある地区だ。 帰宅したディミトリは携帯型超音波診断機を作動させた。超音波端末にローションを塗って自分の腕に当ててみる。 黒いベルトを巻いていた付近を真っ先に調べた。すると左腕の上腕に何かが有るらしいのは分かった。(こんな玩具みたいなのでも役に立つんだな……) 画像部分に白くて四角い物が映されている。金属なので超音波を全反射してしまうので真っ白なのだ。 位置関係を考えると腕の裏側に当たる部位だ。(確かに日本ってのは先進国なんだな) 妙なところで感心してしまった。日本の民生品は凄いものだと認識を新たにしたのだった。(此処じゃ目視では分からない訳だな) 確かに腕の裏側など見る機会はそうそうには無い。むしろ無関心なのが普通だろう。 そこに目をつけて追跡装置を埋め込んであるのだ。(こういう事に手慣れている組織だな……) 自分が相手しているのは諜報機関である可能性が出てきた。 警察であればこんな事はやらない。彼らは逮捕して威嚇して黙らせるのを得意としている。 諜報機関は対象の詳細な情報を得るのが目的だ。泳がせる為に追跡装置などを使いたがる。 そして目立つのを嫌がる。事件化するぐらいなら対象を抹殺するのも手口だ。 これは万国共通の習性なのだろう。 腕の後は身体のアチコチを超音波診断装置で見てみた。 見た感じでは腕以外に反応があった部位は無い。(とりあえずは此処までにしよう…… ヌルヌルして気持ち悪いや……) 全身がローションまみれに成ってしまったのでシャワーを浴びることにする。(ド貧乏国家の市民が先進国に行きたがる訳だな……) シャワーを浴びながらそんな事を考えていた。 先進国ではネット通販で色々な物が購入できるので便利だ。 レントゲン撮影なら確実だが、個人で手に入る代物では無いので諦めた。 大体の場所は分かったので、再び鏡に写して場所を探す。 すると薄っすらと細い線が見受けられた。ここが追跡装置が埋め込まれた手術跡に違
遮断カバーを付けて店に入り、道路に面したボックスを割り当てて貰う。 そこから道路を見張りながらカラオケを歌っていた。 三十分ぐらい歌っていたが彼らが現れないのを確認すると遮断カバーを外してみた。 ロシアのラップ歌手の歌を歌っていると、彼らがやってくるのが見えた。(どうやら遮断カバーは機能しているようだな) ディミトリは不審車を見ながらニヤリと笑った。 何故こんな面倒な事をしているのか言うと、こちらが追跡装置の存在を知っていると思わせないためだ。 カラオケボックスに入っているので、電波が不調だったのだと勘違いさせるためだ。 でなければ金の無い高校生カップルがラブホ代わりにしてる所なんぞに来ない。(結果は上々…… 帰るか、ここは臭くて叶わない……) 店を出ようとしたら大串が彼女と来店したところだった。 向こうは『うげっ』とした顔をしていたが、ディミトリは爽やかに挨拶して別れた。「何アレ、一人カラオケってダサくない?」「よせっ……」「どうしたの?」「良いから……」 そんな会話を背にしながらディミトリは帰っていった。勿論、不審車も距離を保って付いていった。 帰宅したディミトリは鏑木医師のスケジュールを思い出そうとしていた。 家に帰るより前に侵入して、色々と下調べをしたかったからだ。今夜は当直で留守にしているはず。 帰宅するのは明日の夕方以降であるはずだ。(御宅訪問は夜中だな……) 医者の自宅に押し入った。玄関の所に警備会社のシールが貼られているのが見えている。 金持ちだし防犯に気を使うのは当然だろうと考える。 警備会社の防犯システムとは窓などに振動センサーが付けられている。 つまり、ソッと開けてもセンサーが反応して警備会社に通報が行ってしまうのだ。 だが、ディミトリも対処法はいくつも知っている。強襲の作戦時にはセンサーに反応しない場所を調べてから入るからだ。 今回は二階の屋根裏部屋だ。そこには通気口があり、年中開いているのは見ていたからだ。 雨樋を使って屋上に上がり、天井裏にある納戸の窓から侵入してやった。(これじゃあ、まるで猿だな) 自分の事をそんなに風に例えてクスクス笑ってしまった。 家の中に侵入したディミトリは家探しをした。コレと言って目的が有るわけではないが手がかりぐらい欲しかったのだ。 だが、綺麗に
「若森くんじゃないかね…… 君こそ、何でここに居るのかね?」 だが、ディミトリを見て少し驚いたようだが冷静さを取り戻した。 鏑木医師は盛んに外の様子を気にしている。「見張りのことを気にしているんですか?」「……」「大丈夫」「連中は俺がどこに居るのか分からないようにしてあるんだよ」 ディミトリは左腕をまくってみせた。上腕には遮断カバーが巻かれていた。「それは……」「ああ、追跡装置が此処に埋まってるんだろ?」 ディミトリがニヤリと笑ってみせた。鏑木医師は明らかに動揺していた。 ここで知らないふりをするようならディミトリの勘違いだったが彼は分かっているようだ。「大丈夫、電波が出ていないのは確認してあるからさ……」「……」「ファンクラブのおっちゃんたちは俺が自宅に居ると思って安心しているのさ」「……」 鏑木医師は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。「さあ、知ってることを教えてもらおうか……」「な、なんの話だ!」 鏑木医師は知らない振りをしようとしている。「おいおい…… この段階で惚けても無駄だよ……」「俺は何もしらんぞっ!」 鏑木医師はなおも白を切り通そうとした。だが、無駄だ。「俺が元々誰だかは知ってるんだろ?」「……」「じゃあ、元の商売も知っている訳だ……」「優しく聞いて欲しいのか、激しく聞いて欲しいのか…… どっちだ?」 ディミトリの手には自作のスタンガンが握られている。「俺は激しい方が好みだがな……」 スタンガンをバチバチ言わせながら詰め寄ってみた。「わ、私は頼まれて『クラックコア』の経過観察をしていただけだ……」 鏑木医師は動揺を見せ始めた。やはり、この手の人種には目に見える暴力の方が効果があるようだ。 日頃から持て囃されているので、悪意を向けられることに慣れていない。そして、尋問されることにも慣れていない。 少し脅すだけで簡単に口を割ってしまう。「クラックコア?」 ディミトリは聞き慣れない用語に戸惑ってしまった。 詳しく話をさせようと、ディミトリが鏑木医師に一歩近づいた。バスッ 不意に鈍い音が窓から響いた。見ると窓に小さな穴が空いている。 それと同時に鏑木医師の頭が半分消し飛んでいくのが見えたのだ。(狙撃っ!) ディミトリはすぐさま床に伏せて、這いずって窓際に移動した。 状
鏑木医師の自宅。 狙撃手はひとブロック先のマンションあたりと見当を付けた。距離にして六百メートルくらいだろう。 これだけ遠いと双眼鏡でも無いと確認が出来ない。(まいったね……) ディミトリは傍にあったクッションに帽子を被せて窓から出してみた。 すると五秒ぐらいしてから帽子が撃ち抜かれた。銃弾を発射した音は聞こえてこない。 ライフルの銃撃音は結構大きいものだ。それが、聞こえないということは減音器を装着してるのだろう。(中々の腕前だな……) 撃ち抜かれた帽子を見ながらディミトリは感心した。(でも、狙撃手は一人きりだな……) 狙撃を行うためのスコープは視野が狭い。だから、帽子を撃つのに時間がかかっていたのだろうと推測した。 軍隊の狙撃はスポッターと呼ばれる兵隊が傍に付いている。狙撃手の視野の狭さを補佐する為だ。 スポッターが居るのなら五秒も掛かるはずがないとディミトリは結論づけたのだ。(つまり、少人数の襲撃チームというわけか……) やってくるのは二人組の男たち。顔の所に何やら四角いゴーグルを掛けているように見える。 それはディミトリにも馴染みのものだった。(暗視装置!) 狙撃する者と襲撃する者に別れている。八人ぐらいの部隊だろうなと当たりを付けた。 これは特殊部隊が運用される単位に近かった。(間違いなく厄介な連中だな……) 家の中に入ってきたらしい。しかし、男たちは音を立てなかった。(この足運び方法は…… 兵隊だな……) 戦場の最前線を思い出すようだ。(あのヒリヒリとした熱い空気が、空間に充満している感じ……) ディミトリは嬉しくて爆発しそうだった。自分の居場所だからだ。(嬉しいね…… よしっ今夜は丁寧に君たちを殺してあげるよっ!!) ディミトリがニタリと笑った。無垢の市民相手では無いし、ちょっと腕に覚えがある程度のチンピラでは無い。 プロの殺戮者が相手になるのだ。手加減せずに兵隊時代に培った技術で戦えるのが嬉しいようだ。(まあ、これが本来の俺だ……) まず、手前の男から片付ける事にした。壁際に張り付き男が近づくのを待ち構えた。 殺意が静かに動いてる感じがする。 やがて銃を構えた男がディミトリの目の前に現れた。「ロックンロール(戦闘開始)」 暗闇からディミトリの声が響いた。男はぎょっとしたように立ち止まっ
(装備は警察の突撃部隊の奴に似てるな……) すると廊下の方からミシリと音が聞こえた。二人目だ。軍隊はツーマンセルと呼ばれる二人組で行動するのが常だ。 ディミトリは再び壁に張り付いた。この後、相手は鏡で部屋の様子を見るはずだ。その時に隙が生じる。 少しだけ待つとディミトリの望んだ展開になってきた。小さな手鏡が壁の向こうから現れたのだ。 ディミトリはしゃがんだ姿勢のまま、壁の向こうに銃だけを突き出し。三発ほど連続で撃ち込んだ。「ぐあっ!」 悲鳴にも似たうめき声が聞こえた。どうやら命中したらしい。 ディミトリは寝転んだまま、身体を壁からはみ出さ連射させる。「あうぅぅぅ……」 もうひとりの男は片足を撃ち抜かれて、片膝を付いた状態でいる。 ディミトリは手に持っていた拳銃で相手の暗視装置ごと撃ち抜いてやった。(こいつの装備は後で回収しよう……) 一人目が耳に付けていたイヤホンを外して聞いてみた。情報収集の為だ。『A隊怎麼了?(Aチームどうした?)』(え? 中国語!?) ディミトリは中国語を知っている訳ではない。何となくそんな感じがするだけだ。 もちろん無線の中を飛び交っていたのは中国語だ。『應答(応答しろ)』『拘束了目標嗎?(目標を拘束したか?)』『應答(応答しろ)』 Aチームというワードは理解できた。恐らくはディミトリが片付けた二人の事であろう。 うめき声の後で応答が無くなれば何かが有ったと考えるのは当然だ。『A隊沉默(Aチーム沈黙)』『出乎預料的事項發生(想定外の事項が発生)』『我是接近的男人想為目標(目標に接近した男だと思います)』『B隊那個傢伙也壓制(Bチームはそいつも制圧しろ)』『了解(了解)』 そして今度はBチームのワードが出てきた。(Aが居るという事はBもあるって事か……) 普通に考えれば様子を見に行かせるのだろう。 最低でも後二人遊んでもらえる。ディミトリはニヤリと笑った。ガタンッ 二階で物音が響いた。何かを落としたような音だ。 きっと、Bチームは二階の捜索を担当していたのだろう。 ディミトリは廊下を素早く移動して、階段横にある納戸に入った。待ち伏せするためだ。 Bチームの二人はゆっくりと慎重に階段を下りてきた。 そして、連絡が取れなくなったAチームが居るはずの、リビングに向かおうとしてい
二人の死体から装備などを外し始める。全員が同じ装備を付けていた。(折角、装備はそれっぽいのを用意したのにな……) 何だか呆気無く片付いてしまったからだ。これは彼らの練度が足りないからではない。 実戦経験が無いので、どこを見て警戒しなければ成らないのかが分からなかったのだ。 これが米軍やロシアなどの、実戦経験豊富な兵隊相手だったら一人では無理だっただろう。(まあ、いいや) 兎に角、ディミトリは短機関銃と拳銃と弾薬を手に入れた。 軍用の暗視装置や小物たちもだ。これは想定外の収穫だった。『B隊怎麼了?(Bチームどうした?)』『壓制了目標嗎?(目標を制圧したか?)』『應答(応答しろ)』 無線の相手は混乱しているようだ。(医者を始末しに来たんじゃなくて攫いに来た感じか……) 鏑木医師を葬り去るだけなら狙撃して死体回収だけで済んだはずだ。 ところが重装備のチームを待機させていたのは、誘拐を企てていたに違いないとディミトリは結論づけた。(じゃあ、何故鏑木医師を射殺したんだ?) ここで『クラックコア』の単語が頭に浮かんだ。 恐らくは、彼らは『クラックコア』の事が露見されるのを好まないに違いない。(ん? 何で鏑木医師が『クラックコア』の単語を口にしたのを知っている?) ディミトリは室内が盗聴されている事に気がついた。可能性が高いのは携帯電話であろうなと考えた。 何しろ自分も携帯電話を使った盗聴をやっているからだ。 これだけの装備を用意出来る連中がやらないわけが無い。『狙擊手告知情況(狙撃手は様子を知らせろ)』『很好地看不見(良く見えない)』『……!……』 無線機の相手が盛んに怒鳴っている。言葉が分からなくと相手が相当苛立っているのが理解できるぐらいだ。 武器を持たないはずの医者を攫おうとしたら反撃されたのだ。 子供のお使い並みに簡単な仕事だったはずだ。なのに襲撃部隊は壊滅状態に成ってしまったのだから無理もない。(引き上げどきだな……) 彼らの目的は鏑木医師の拘束だったに違いない。 目的が達成されていない以上、増援が駆けつける可能性が高い。 もう少し戦いたかったが深追いは禁物だろう。 そろそろ撤収してしまわないと動きが取れなくなってしまう。(これがジョーカーで無ければいいんだがな……) ディミトリは鏑木医師宅の裏側
大通りの路上。 田口兄が車でやってきた。一人のようだ。「よお……」「どうも、迷惑掛けてすいません……」 ディミトリは憮然とした表情で挨拶をした。 田口兄は愛想笑いを浮かべながら、自分の問題を解決してくれたディミトリに感謝を口にしていた。「……」 ディミトリは田口兄の挨拶を無視して車に乗り込んでいった。「俺の家に帰る前に寄り道してくれ」「はい」 田口兄は素直に返事していた。年下にアレコレ指図されるのは気に入らないが、相手がディミトリでは聞かない訳にはいかない。 何より怒らせて得を得る相手では無いのを知っているからだ。「何処に向かえば良いですか?」「これから言う住所に行ってくれ……」 そこはチャイカたちが使っていた産業廃棄物処分場だ。 確認はしてないがそこにジャンの所からかっぱらったヘリが或るはず。その様子を確認したかったのだ。 処分場に向かう間も無言で考え事をしていた。田口兄はアレコレと他愛もない話をしているがディミトリに無視されていた。 やがて、目的の場所に到着する。山間にある場所なので人気など無い。道路脇に唐突に塀が有るだけなので街灯も何も無かった。 産業廃棄物処分場の入り口には南京錠が取り付けられている。ディミトリは中の様子を伺うが人の気配は無いようだった。「なあ…… ワイヤーカッターって積んである?」 きっと泥棒の道具として、車に積んでいる可能性が高いと考えていた。「ありますよ。 コイツを壊すんですか?」「やってくれ」 田口兄はディミトリに初めてお願いされて、喜んでワイヤーカッターで南京錠を壊してくれた。 後で違う奴に付け替えてしまえば多分大丈夫と考えていた。 中に入るとヘリコプターは直ぐに分かった。ヘリコプターは処分場の中程にある広場のようになった真ん中に鎮
『はい……』「帰りの足が無くて往生してるんだ」『はい……』 ディミトリは電柱に貼られている住所を読み上げた。田口兄は十五分程でやってこれると言っていた。『あの連中は何か言ってましたか?』「ああ、鞄を返せとは言っていたが、それは気にしなくて良い」『どういう事ですか?』「話し合いの最中にバックに居る奴が出て来たんだよ」『ヤクザですか?』「そうだ」『……』「ソイツの組織と別件で前に揉めた事があってな……」『あ…… 何となく分かりました……』「ああ、かなり手痛い目に合わせてやったからな」『……』 ディミトリの言う手痛い目が何なのか察したのか田口兄は黙ってしまった。「俺の事を知った以上は関わり合いになりたいとは思わないだろうよ」『い、今から迎えに行きます』 田口兄はそう言うと電話を切ってしまった。 大通りに出たディミトリは、道路にあるガードレールに軽く腰を載せていた。考え事があるからだ。 帰宅の心配は無くなった。だが、違う心配事もある。(本当に諦めたかどうかを確認しないとな……) 追って来ない所を見ると諦めた可能性が高い。だが、助けを呼んでいる可能性もあるのだ。確かめないと後々面倒になる。 その方法を考えていた。(家に帰って銃を持って遊びに来るか…… いや、まてよ……) そんな物騒な事を考えていると、違う方法で確認出来る可能性に気が付いた。(剣崎が灰色狼に内通者を持っているかもしれん……) ディミトリの見立てでは剣崎は灰色狼に内通者を作っていたフシがある。 灰色狼は日本に外国製の麻薬を捌く為
隣町の路上。 店を出たディミトリは、大通りの方に向かって歩いていった。なるべく人通りが或る方に出たかったからだ。 彼らが追撃してくる可能性を考えての事だった。相手が戦意を失っている事はディミトリは知らなかった。だから、追撃の心配は要らなかった。 だが、違う問題に直面していた。(う~ん、どうやって家に帰ろうか……) 学校帰りに大串の家に寄っただけなので、手持ちの金は硬貨ぐらいしか持っていない。ここからだとバスを乗り継がないと帰れないので心許ないのだ。(迎えに来てもらうか……) そう考えたディミトリは、歩きながら大串に電話を掛けた。 まさか、バーベキューの串で車を乗っ取るわけにもいかないからだ。「そこに田口はまだ居るのか?」『ああ、どうした?』「田口の兄貴に俺に電話を掛けるように伝えてくれ」『構わないけど……』 大串が言い淀んでいた。気がかかりな事があるのは直ぐに察しが付いた。「田口の兄貴を付け回していた車の事なら、もう大丈夫だと言えば良い」『え!』「お前の家を出た所で、田口の兄貴を付け回してた連中に捕まっちまったんだよ」『お、俺らは関係ないぞ?』前回、騙して薬の売人に引き合わした事を思い出したのだろう。慌てた素振りで言い訳を電話口で喚いている。「ああ、分かってる。 連中もそう言っていた」『……』「きっと、見た目が大人しそうだから言うことを聞くとでも思ったんだろ」『無事なのか?』「俺が誰かに負けた所を見たことがあるのか?」『いや…… 相手……』「大丈夫。 紳士的に話し合いをしただけだから」『でも、それって……』「大丈夫。 今回は殺していない……」『&helli
「この通りだ……」 ワンは銃を机の上に置いた。そして、両手を開いて見せて来た。「なら、その銃を寄越せ……」 ワンは銃から弾倉を抜いて床に置き、足先で滑らせるように蹴ってきた。ディミトリはそれを靴で止めた。「アンタに弾の入った銃を渡すと皆殺しにするだろ?」(ほぉ、馬鹿じゃ無いんだ……) 彼の言う通り、銃を手にしたら全員を皆殺しにするつもりだった。 ワンはそれなりに修羅場をくぐっているようだ。 ディミトリは滑ってきた銃をソファーの下に蹴り込んだ。これで直ぐには銃を取り出せなくなるはずだ。「鶴ケ崎先生はどうなったんだ?」「おたくのボスに殺られちまったよ」「……」 どうやら、灰色狼は組織だって動いて無い様だ。誰が無事なのかが分かっていないようだ。「それでボスのジャンはどうなったんだ?」「さあね。 ヘリにしがみ付いていたのは知ってるが着陸した時には居なかった」「殺したのか?」「知らんよ。 東京湾を泳いでいるんじゃねぇか?」(ヘリのローターで二つに裂かれて死んだとは言えないわな……) 手下たちは額に汗が浮かび始めた。さっきまで脅しまくっていた小僧がとんでも無い奴だと理解しはじめたのだろう。「ロシア人がアンタを探していたぞ……」「ああ、奴の手下を皆殺しにしてやったからな…… また、来れば丁寧に歓迎してやるさ」 ディミトリは不敵な笑みを浮かべた。 ワンは少し肩をすぼめただけだった。どうやらチャイカと自分の関係を知らないらしい。「俺たちは金儲けがしたいだけだ。 アンタみたいに戦闘を楽しんだりはしないんだよ」「……」 やはり色々と誤解されているようだ。自分としては降りかかる火の粉を振り払っているだけなのだ。結果的に
ナイトクラブの事務所。 ディミトリは弱ってしまった。部屋に入ってきた男はジャンの部下だったのだ。そして、この連中はコイツの手下なのだろう。 折角、滞りなく帰宅できるはずだったのに厄介な事になりそうだ。(参ったな……) ディミトリは顔を伏せたが少し遅かったようだ。男と目が合った気がしたのだ。「お前……」 入ってきた男が何かを言いかけた。その瞬間にディミトリは、右袖に仕込んでおいたバーベキューに使う金串を、手の中に滑り出させた。こんな物しか持ってない。下手に武器を持ち歩くのは自制しているのだ。 ディミトリは車で送ってくれると言っていた男の髪の毛を引っ張って喉にバーベキューの串を押し当てる。 これならパッと見はナイフに見えるはず。牽制ぐらいにはなると踏んでいるのだ。 いきなり後頭部を引っ張られてしまった相手は身動きが出来なくなってしまったようだ。何より喉元に何かを突きつけられている。 兄貴と呼ばれた男と部屋に居た残りの男たちも動きを止めてしまった。「動くな……」 ディミトリが低い声で言った。優等生君の豹変ぶりに周りの男たちは呆気に取られてしまっている。 しかし、入ってきた男は懐から銃を取り出して身構えていた。ディミトリの動きに反応したようだ。「え? 兄貴の知り合いですか?」「何だコイツ……」 部屋に居た男たちはいきなりの展開に戸惑いつつ兄貴分の方を見た。「ちょ、待ってくれ!」 だが、兄貴と呼ばれた男が意外な事を言い出した。(ん? 普通はナイフを捨てろだろ……) ディミトリは妙な事を言い出した男に怪訝な表情を浮かべてしまった。「俺は王巍(ワンウェイ)だ。 日本では玉川一郎(たまがわいちろう)って名乗っているけどな……」「ああ、ジャンの手下だろ…… 倉庫で
「田口君のお兄さんが鞄を持って行ったって何で解ったんですか?」 大串の家で聞いた限りでは誰にも見られていないはずだ。だが、現に田口の家ばかりか交友関係まで把握しているのが不思議だったのだ。「防犯カメラに田口が鞄を弄っている様子が映ってるんだな」 一枚の印刷された画像を見せられた。防犯カメラと言うよりはドライブレコーダーに録画されていたらしい画像だ。 黒い革鞄と田口兄が写っている。それと車もだ。ナンバープレートも写っていた。(泥か何かで隠しておけよ……) 泥棒は車で移動する時にはワザと泥などでナンバープレートを隠しておく。防犯カメラに備えるためだ。「鞄を返せと言えば良いだけだ」「鞄の中身は何なの?」 何も知らないふりをして質問してみた。「中身はお前の知ったこっちゃない」 男はディミトリをギロリと睨みつけながら言った。「まあ、そんなに脅すなよ。 中身はそば粉と子供玩具と湧き水を容れたボトルさ」「?」 子供騙しのような嘘だとディミトリは思った。「この写真を見せながら言えよ?」 ボス格の男はそう言うと何枚かの写真を投げて寄越した。 写真には田口と田口兄。それと一組の夫婦らしき男女の写真と、小学生くらいの女の子の写真があった。田口の家族であろう。 最後は故買屋の防犯カメラ映像だ。鞄の処理の前に銅線を売りに行ったらしい。 普通の窃盗犯であれば仕事をした後は暫く鳴りを潜めるものだ。そうしないと探しに来る者がいるかも知れないのだ。(ええーーーー…… 素人かよ……) 余りの幼稚な行動にめまいがしてしまった。「そば粉なら、また買えば良いんじゃないですか?」 ディミトリは話の流れを変えようと言い募った。 窃盗した後に迂闊な行動をする馬鹿と、見張りも立てずに取引物をほったらかしにする素人など相手にしたくなかったのだ。「そば粉は別に良い。 ボトルを返せと言えば良い……」 ここで、ピンと来るモノがあった。(そば粉だと言う話は本当だろう……) 見つかった時の言い訳用だ。拳銃が玩具だというのも本当だろう。万が一、職務質問で見つかっても警察が勘違いだと思わせることが出来るはずだ。 ボス格の男が色々と蕎麦に関してのウンチクを並べているがディミトリの耳に入って来なかった。(だが、ボトルの中身は…… 麻薬リキッドだな……) ディミトリはボトル
大串の家の近所。「いいえ、別に友達ではありません……」 ディミトリは警戒して言っているのでは無い。本当に友人だとは思って居ないのだ。「でも、田口のツレの家から出てきたじゃねぇか」 男の一人が大串の家を顎で示しながら言った。 これで男たちが田口を尾行して、彼が大串の家を訪ねるのを見ていたと推測が出来た。「学校でクラスが同じなだけです……」 ちょっと、面倒事になりそうな予感がし始め、ディミトリは警戒感を顕にしていた。「ちょっと、オマエに頼みたいことが有るんだ」 男が手で合図をすると車が一台やって来た。やって来たのは白の国産車だ。 大串たちの話ではグレーのベンツだったはずだが違っていた。「ちょっと、付き合ってくれ」 開いた後部ドアを指差した。「クラスの連絡事項を伝えに来ただけで、僕は無関係ですよ?」 妙齢のお姉さんであれば喜んで乗るのが、おっさんに誘われて乗るのは御免こうむるとディミトリは思った。「田口に届け物を渡して欲しいんだよ」「それなら、おじさんたちが直接渡したらどうですか?」 ディミトリは尚もゴネながら逃げ出す方法を考えていた。「良いから。 乗れって言ってんだろ?」 ディミトリを知らないおっさんは頭を小突いた。瞬間。頭に血が上り始めた。(くっ……) だが、人通りもあって我慢する事にしたようだ。今はまだディミトリは冷静なのだ。ここで、喧嘩沙汰を起こすと警察が呼ばれてしまう。それは無用な軋轢を起こしてしまう。 それに相手は中年太りのおっさんが三人。ディミトリの敵では無い。チャンスはあると思い直したのだった。(周りに人の目が無ければ、コイツを殺せたの……) ディミトリは残念に思ったのだった。 こうして、ディミトリは大串の家から出てきた所を拉致されてしまった。 連れて行かれたのは中途半端な繁華街という感じの商店街。端っこにあるナイトクラブのような地下の店に連れ込まれた。 まだ、開店前らしく人気は無かった。その店の奥にある事務所に連れ込まれた時に、白い粉やら銃やらをこれ見よがしに置かれているのを見かけた。(ハッタリかな……) まるで無関係の奴に見せても益が無いはずだ。ならば、ハッタリを噛ませて言うことを効かせようという魂胆であろう。 ヤクザがやたら大声で威嚇するのに似ていた。「よお、坊主…… 済まないな……」
「それでマンションに忍び込んで、各階の電線を盗みまくっていたらしいんだけど……」「マンションって屋上にエレベーターの機械室があるじゃん?」「ああ」「そこに入った時に鞄が落ちてたんだそうだ」(いや、それは隠してあると言うんじゃないか?) ツッコミを入れたかったが話を済ませたかったので続きを促した。「工事道具を置きっぱなしにしたものかと思ったんだよ」 鞄の上部にスパナやレンチなどの道具が入っていたそうだ。それで勘違いしたらしい。 こんな物でも故買屋は引き取ってくれるのだそうだ。「それで儲けたと思って鞄と電線を持って帰ってきたんだ」(何故、その場で確認しないんだ……) チラッと見ただけで済ませたらしい。ディミトリのように疑り深い奴なら鞄をひっくり返して中身を確かめるものだ。「でもって、車に戻って中身を全部見たら、拳銃と白い粉が入っていたんだよ」 そのセットはどう考えても犯罪組織に関わり合うものだ。「どう考えても様子がおかしいから、兄貴たちはビビっちまってロッカーに隠したんだってさ」 元の場所に戻しに行こうとしたが、車がやって来るのが見えたので慌てて逃げたらしい。(受け渡しの途中だった可能性が高いな……) 金と物の交換を別々の場所で行い、お互いの安全を図る方法だ。警察の手入れを受けても金だけだと検挙出来難いからだ。 何度も取引をしている組織同士なら安全を優先するものだ。 普通は見張りを配置しておくものだが、それが無かった様子だった。何らかの事情で人手不足だったのかも知れない。「その時には周りに何も無かったらしい」(でも、見落としがあったから今の状態だろうに……)「安心していたら何日か経ってから監視されるようになったんだよ」(所詮は素人が見回した程度だからな……)(時間が掛かったのは監視カメラか何かに映っていたのか?) 恐らくは車などに積まれているドライブレコーダーから足が付いたのではないかと考えた。廃墟のマンションに防犯カメラは設置されていない可能性が高いからだ。「で、具体的に何か言って来たのか?」「いや、ただ付けられただけみたい……」 要するに何もされて居ないのに、勝手に怖がっているだけのようだ。ディミトリは呆れてしまった。「何かしてくるようなら、その時に相談に乗るよ……」 何も要求されていないのなら、何も言う
放課後。 その日一日を平穏無事に済ませたディミトリは帰り支度をしていた。そこに大串が再びやって来た。「なあ……」「行かないよ?」 大串の思惑が分かっているディミトリは素っ気無く言った。「まだ、何も言ってないじゃん……」「田口の兄貴に関わる気は無いよ」「じゃあ、せめて田口の話だけでも聞いてくれよ」「そう言えば今日は田口が来てないな……」 ディミトリが周りを見渡しながら言った。興味が無かったので田口が居ないことに、その時まで気が付かなかったのだ。「ああ、放課後に俺の家に来ることになっている」「そうなんだ」「お前が田口の家に行かないと言ったら、俺の家で相談に乗って欲しいって言ってきたんだよ」「だから、面倒事に関わる気は無いんだってば」「いや、アドバイスだけでも良いと言ってる」「……」「かなり困っているみたいなんだよ」「なんだよ。 情け無いな……」 大串の説得に話だけでも聞いてやるかとディミトリは思った。 それでも手助けはやらないつもりだ。迷惑を掛けられた事はあるが助けてもらった事など無い。いざとなったら、誰かが助けてくれるなどと考えている甘ちゃんなど知った事では無いのだ。(悪さするんなら覚悟決めてやれよ……) そんな事を考えながら、大串と連れ立って彼の家に向かう。 ディミトリはその間も通る道を注意深く観察していた。彼には警察の監視が付いていたはずだからだ。 ところが最近は見かけないと言っていた。恐らく公安警察の剣崎と対峙したあたりから監視が外れているようだ。 ディミトリには何故剣崎が自分を捕まえないのか分からなかった。(まあ、面倒臭そうなら剣崎に投げてしまう手もあるな……) 剣崎が冷静を装ったすまし顔を困惑するのが浮かぶようだ。ディミトリは少しだけほくそ笑んだ。 大串の部屋に入ると田口が暗そうな顔をして座っていた。「やあ」 ディミトリはなるべく明るめに挨拶をしてやった。 まずは話を聞くふりをする必要がある。マンションに忍び込んだ様子から聞き始めた。「兄貴たちは銅線を集めにマンションに行ったんだ」 田口が話している廃墟マンションは何処なのかは直ぐに分かった。 川のすぐ脇にある奴で何年も工事中だったと話を聞いている。工事をしている業者が倒産してしまい、途中で放棄状態になっているマンションなのだ。 そこに田口